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八上 正典 (バイオリン)

東京音楽大学 音楽学部器楽専攻を経て、同大学大学院科目等履修。2011年9月~2014年7月、ジュネーヴ高等音楽院 演奏課程に在籍。

 

生い立ち

私は1986年に三重県で生まれ、大阪と奈良の府県境にある街で育ちました。

鉄道に乗る事が好きで、家ではプラレールやミニカーを走らせたりスケッチブックに鉄道の絵を描いて遊ぶことが好きな子どもでした。

 

ヴァイオリンを始めた頃

ヴァイオリンを始めた時のことは、よく覚えていませんが、母からは「3歳でヴァイオリンを初めて持ち、4歳からソルフェージュとピアノを通い始めた」聞きました。

子どもの習い事という感じで、特に嫌がることなく練習していました。

 

音楽の道へ進むまで

〜「お習い事」から「演奏する事」へ〜

7歳の時、母の勧めで「音楽大学の附属音楽教室」に毎週日曜に通い始めました。

レッスン内容も、それまでの「お習い事としてのヴァイオリン」から「演奏者を目指すためのヴァイオリン」へと変わりました。レッスンの雰囲気も厳しくなり、先生に怒られる事もありましたが、なぜ怒られているか分からない事もありました。

歳が上がるにつれてレッスンや家での練習も厳しくなりました。

11歳の時、音楽教室の弦楽合奏クラスを土曜日に受ける事になり、「土曜日の夕方はソルフェージュ・夜は弦楽合奏。日曜日はヴァイオリンのレッスン」に、電車で片道1時間かけて毎週通うことになりました。

週末に遊べない事は大変でしたが『周りも頑張っているから自分もやって当たり前』という気持ちで通っていました。

一方で、『ヴァイオリンから逃れることが出来れば・・・』という気持ちも芽生え始めました。

ヴァイオリン以外の思い出が無いまま小学校を卒業した頃から、弾くことが少しずつ嫌になりました。

〜普通の高校生へ〜

昔から鉄道に乗る事が好きだった私は、鉄道の乗務員になることに憧れがありました。

音楽高校を目指そうとは思えず、普通科の高校を受験する事に決めました。そして音楽から距離を置きました。

その時、『やっと解放される』という思いが残りました。

高校時代は、普通の高校生と同じように勉強や恋愛をしました。音楽の道へ進むことなど、少しも考えていませんでした。

 

〜ふたたび、音楽の道へ〜

音楽の道へ進むのを辞めても音楽のことは好きだったので、音楽教室の弦楽合奏だけ続けていました。

17歳の初夏。いつか聴きたいと思っていた「アルバン・ベルク弦楽四重奏団」のコンサートが大阪で開かれる事を知り、高校の授業をサボって聴きに行きました。

それは、それまで耳にしたことのない素敵な音でした。

演奏することの素晴らしさを初めて知り、『もう一度、音楽の道へ挑戦したい』という思いが出てきました。

そして同じ頃、音楽教室の弦楽合奏クラスの友人が音楽の道へ挑戦し始めました。

2つのことが重なり、ふたたび音楽の道へ戻る事にしました。そして、東京音楽大学を受験する事に決めました。どうしても習いたい、ヴァイオリニストの久保陽子先生がいらっしゃったからです。

 

どのように久保先生へ行きつくか考え、まずは先生へお手紙を書きました。

そして、コンサートで来られる岡山でお会いし、日を改めて先生の御自宅(関東)でレッスンを受けることになりました。

ところが初めてのレッスンで、

「音楽大学へ入ったとしても、卒業した後に職業として生活していくなど絶対に無理。だから諦めた方が・・・」

と、厳しい表情で言われました。

しかし『もう一度挑戦する』と決めていた私は、同じ事を何十回言われ続けても引き下がることなく通い続けました。

 

18歳の冬休みのこと。大学受験まで3ヶ月を切っていた時のレッスンで

「受けても無駄だから受験するのは止めなさい」

と、それまでにない厳しい口調で言われました。「挑戦させて下さい」と食い下がると、

「どうしてもと言うなら、1年浪人して練習曲2冊(48曲)を完成できたら受けてもいい」

と言う条件で、浪人することになりました。(後に先生へ伺ったところ、これだけ言えば諦めると思ったそうです。)

この時に初めて「3年のブランクが演奏者にとって、どの様なものか」を思い知りました。

 

久保先生からの課題が完成に近づいた19歳の年末、「一度で受からなければ、その時点で音楽の道を諦めるという条件」で、久保先生から受験する許しを頂きました。

『何が何でも通る』との気合いだけで入試を乗り切った2006年春、東京音楽大学へ無事合格しました。

4歳年下の友人も別の音楽高校へ合格し、お互い東京で頑張る事になりました。

 

 

大学生活

〜東京音楽大学へ〜

大学では久保先生の下、ひたすら練習曲のレパートリーを増やし続けました。レパートリーが増えるにつれて、弾くことに少しずつ自信がついてきました。

他の弦楽器の先生からも「試験ごとに、上手くなっている」と言われたこともあり、久保先生の下で勉強できることの喜びや充実感を感じながら大学生活を送りました。

 

〜卒業〜

大学最後の一年も、それまでと変わらず久保先生の指導を受けながら卒業試験(1月にある実技試験)の準備をしました。目標は、「4月に行われる卒業演奏会(*)へ出演すること」

卒業試験が終わり、卒業後の4月にトッパンホールの舞台に立たせていただく機会に恵まれました。

(*)卒業演奏会:専攻ごとに、卒業試験の成績上位2〜3名の学生が出演するコンサート。

 

留学生活

大学卒業後は研究科で一年間、久保先生の下で勉強しました。それでも音楽で生活していく事は出来ず、進路も決まっていませんでした。同時に『まだ勉強し残している事を、ヨーロッパーで勉強したい』と考えていました。親や久保先生に相談し、留学する許しを頂きました。

そして25歳の秋、スイスのジュネーヴへ行きました。

 

留学して暫くは、基本練習(音階やボーイング)だけでレッスンが終わる事が多く、『基本だけで留学が終わってしまうのではないか?』という焦りがありました。ジュネーヴへ来た事を後悔し『一年目を終えたら、帰国したい』と何度も思いました。

ところが他の学生のレッスンを見学していて、指摘するのを諦められている学生も居るのを目の当たりにした時、たとえ基本的なことでも指摘されているうちが華である事に気付きました。

次第に、『基本的なことで留学が終わってもいいから、一歩ずつ前へ進もう』という考えに変わっていきました。

その積み重ねの中、留学二年目にはジュネーヴのプロオーケストラの公演に、弾かせて頂く機会にも恵まれました。

基本練習ばかりだったレッスンも留学二年目の後半になると、少しずつ曲を弾かせていただけるようになり、留学三年目にはバッハ, イザイといった難曲も勉強することが出来ました。

 

そして三年間の留学生活を終え、28歳の時に日本へ帰国しました。

帰国前最後のレッスンで、あまり褒めることが無かった先生が 「君は、ぼくが見てきた生徒の中で一番進歩した。」 と言って下さいました。

それを聞いた時、『3年間しがみついて本当に良かった』と心から思いました。

 

帰国後、RHYの講師になるまで

〜ふたたび、関東へ〜

帰国してから2年間は、大学時代を過ごした埼玉県の朝霞に住みました。

2年間は、在京プロオーケストラのエキストラ・アマチュアオケの手伝い・小学校でのゲスト講師・ピアニストの譜めくり・コンサートの手伝い、などをしながらプロオーケストラのオーディションを受け続けていましたが、受けては落ちるの繰り返しでした。

結局受かる事は出来ず、29歳の春に最後に受けたオーディションの後、気持ちの糸が切れました。その後、『この先、生活していけるか』という不安が日に日に大きくなり、30歳の師走を迎えました。

〜一本の電話〜

その歳の年末のある朝、久保陽子先生より電話があり

「大阪のRHY音楽教室で講師を探しているので、オーナーと会ってみるように」

と言われました。急な事で驚きました。

電話のあった2日後、どんな音楽教室か知らずに不安な気持ちのままオーナーとお会いしました。

そして、今まで続けてきたヴァイオリンを生かせる職業として、講師になる覚悟を決め、2017年1月より講師を務めさせていただく事になりました。

 

今、思うこと

このプロフィールを振り返ると、『自分は恵まれていて本当に運がよかった』と、つくづく思います。

理由はわかりませんが、手を差し伸べて下さった方々への感謝の気持ちだけは、常に持ち続けています。

これからは人に音楽を伝える職業だからこそ、常に謙虚でありたいと考えています。

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